日本史の『乱』『変』『役』の違いとは?

どーもヨヘです!

歴史といえば年代の暗記がめんどくさいイメージがありますが、ちょっとした法則を身につけてしまえばストーリーの流れを掴むのが少し楽になると思います。

本日は、日本史をやっていて気になる『乱』『変』『役』の違いを簡単に書いていきます。

まずは有名どころから!

乱→応仁の乱、神風連の乱

変→乙巳の変、本能寺の変、禁門の変

役→前九年の役、後三年の役、文永の役、弘安の役、西南の役

『乱』と『変』はクーデター

一般的には『乱』と『変』はクーデターと言われています。

大雑把な違いとしては、乱』は政権などの転覆に失敗した場合『変』は権力を奪うなど目的を達成した場合を指します。

乱の代表は応仁の乱。これは室町時代の応仁元年に京都で起きた戦いです。

室町将軍家の継嗣争いから始まった戦いで、のちに全国を巻き込み戦国時代の発端とも言われている戦いです。

将軍足利義政には子供が生まれず、弟(義視)に将軍の座を譲ろうとしていた矢先に息子(義尚)が生まれました。

そこで義尚の母親である日野富子は義尚が将軍になることを望み、管領家に近づき策略を図りました。家督継承は父子の問題だけではなく、家族や家臣を巻き込み大きな争いに発展することがしばしばあります。

有名な本能寺の変、これは今大河ドラマでやってますね。明智光秀が主君である織田信長を本能寺で討った事件です。

織田信長は朝廷から役職を受けて(三職推任)、日本のトップになる予定でした。

家臣であった明智光秀が謀反を起こしたことで織田信長は権力を確実に握りそびれてしまいました。これもクーデターと言えますね。

『役』は辺境や異民族との戦い

最後に『役』について見ていきましょう。

前九年の役後三年の役は平安時代後期に東北地方の陸奥国で起きた戦いです。

文永の役弘安の役は合わせて『元寇』と一般的に言われています。

西南の役は、西郷隆盛と不平士族と明治新政府の戦いです。

平安時代の東北地方は蝦夷という異民族の地であり、奥州藤原氏が支配していました。征夷大将軍という役職は教科書でも聞きますよね。征夷は夷、異民族を征するという意味です。古くの日本では京が中心で東北地方や九州地方の南部は異民族の地でした。つまり、この時代の中心地であった京から見ると、東北地方の蛮族との戦いだと意識されていたことがわかります。

面白いのが西南の役です。

明治新政府のやり方に不満をもつ元武士たちが西郷を担ぎ上げて起こしたクーデターです。

明治政府は武士の特権を廃止して、金禄公債を発行して「あとは自分で商売でもしてくれ」というスタンスでした。士族という身分に組み込まれ、一応平民との区別はありましたが、刀を携えることも許されず藩からのお給料もなくなり、あまりメリットはありませんでした。

そういったやり方が気にくわない武士たちの反乱は全国で起きています。

神風連の乱、佐賀の乱は鎮圧されてしまいましたが、なぜか西南戦争には西南の役という別称があるのです。

古代の南九州は熊襲、隼人といった大和民族とは異なる民族の記録が残っていますが、会津も大昔は蝦夷、東夷の土地でした。

鎖国中も一部で貿易が認められていたオランダ人は南蛮人と呼ばれていて、外国=野蛮という意識はあったと思います。しかし、当時の人々が南九州や東北地方の人を辺境民族と意識していたとは思えません。

尊皇攘夷の風潮の中、九州の南部で中央政府に対する大規模なクーデターは、服属しない辺境の勢力とみられたのでしょう。

新政府側の征討軍、〇〇鎮台という名称からも窺えますね。